安倍首相の国連演説での「積極的平和主義」という言葉について
藤田明史
第68回国連総会の一般討論演説において2013年9月26日に安倍首相は日本語で次のような発言を行った。
「日本として、積極的平和主義の立場から、PKOを始め、国連の集団安全保障措置に対し、より一層積極的な参加ができるよう、私は図ってまいります。」
安倍氏は「積極的平和主義」という言葉を明確に定義していない。しかし、現代の政治的文脈において、おそらく彼はこの言葉に次のような意味をこめて使っているに相違ない。憲法9条に基づく「平和主義」は「消極的平和主義」である。しかしこれでは「悲劇に満ちている」世界の状況に十分に対処することはできない。「世界に対して善をなす、頼れる『力』」として、日本は世界の平和構築に積極的に行動していかなくてはならない。これには「積極的平和主義」という言葉がふさわしいのである、と。
一方、オバマ米大統領は2013.9.24の演説で次のように発言していた(日本語訳は筆者のもの)。
「米国は、この地域(中東や北アフリカ―引用者)における核心的な利益を保障するために、軍事力を含む我々の力のすべての要素を使う用意がある。
湾岸戦争のとき我々が行ったように、我々の同盟国と友好国に対する外部からの侵略に対して我々は対峙するであろう。
我々は、この地域から世界へのエネルギーの自由な流れを確実なものにするであろう。米国は輸入石油への依存を着実に減らしてきたものの、世界は依然としてこの地域のエネルギー供給に依存している。そしてその急激な途絶は世界経済全体を不安定化させるだろう。」
こうした米国の立場の表明をも踏まえ、「積極的平和主義」を唱える安倍氏の脳裏には、世界における自衛隊の軍事行動はほとんど自明のものと見えていたに相違ない。すなわち、「積極的平和主義」という言葉で、安倍氏は、集団的自衛権の行使、そのための憲法「改正」を実質的に世界に向かって「公約」したつもりなのであろう。
しかし、間違ってはいけない。次の二点について彼の基本的な認識の誤りを指摘できるように私には思える。
第一に、こうした文脈において「積極的平和主義」という言葉を用いることは、それがもつ本来の意味を曖昧にする、概念の甚だしい誤用であると言わなければならない。現代平和学において「積極的平和」(positive peace)の概念は、暴力の否定を意味する「消極的平和」(negative peace)の概念の上に成立する。すなわち、消極的平和と積極的平和はコインの両面なのである。ゆえに、戦争を否定する憲法9条の「消極的平和主義」に対し安倍氏が「積極的平和主義」を言うのであれば、論理の一貫性を重視する限り、戦争(国家による組織的・集団的暴力)の否定をより実質ならしめる諸施策――専守防衛の徹底、災害救助隊および非暴力平和隊への自衛隊の改組、紛争転換・調停・和解への積極的関与など――をこそ彼は表明すべきであったのだ。
第二に、よりによって国連の場において、日本国憲法の「消極的平和主義」を事実において否定する安倍氏の発言は、憲法それ自体の尊厳を著しく損なう行為であると言わなければならない。なぜなら、およそ憲法の論理は自らを縛る論理であり、そのことをつねに誰よりも反省すべき立場に安倍氏はあるからだ。しかし彼の発言からは、それとは正反対の、日本の既得権益を専ら守る自己正当化の論理しか聞こえてこない。これでは軽蔑の対象にこそなれ、世界の心ある人々の尊敬を得ることは到底できないであろう。
このような首相をしかわれわれがもちえないのであれば、世界の「悲劇」の元凶に「頼れる『力』」として連なることによって、日本の市民にこそ「悲劇」はあると言わざるをえないのではなかろうか。理性に基づく真に主体的な行動がいまわれわれに求められているのである。
『トランセンド研究』 11巻2号掲載