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あいさつ

トランセンド研究会 新ML発足にあたって

共同代表 藤田明史

ロシアによるウクライナ侵攻という1つの事象(event)をわれわれは自分の問題としてどう考えれば良いのか? 以下、恐縮ですが、戦争に関して私がいままで書いたり、引用したり、翻訳したものの中からいくつかの断片を並べてみます。

まず、「グローバリゼーションと核兵器」から。主語を米国からロシアに、下線以外の部分は適当な文言に変えながら読んでください。「米国は、『9.11同時多発テロ』を契機に、『対テロ戦争』を口実としてアフガニスタン戦争とイラク戦争を開始した。しかし、ここで問われているのは、匿名のテロ行為に対する報復として特定の主権国家に対する軍事行動が行われることの正当性(legitimacy)である。イラク戦争の理由として、フセイン政権のアルカイダとのつながり、大量破壊兵器の保有が当初あげられていたが、その後これらの嫌疑の根拠がきわめて薄弱であったことが判明した。イラク戦争は、主権国家イラクに対する米国による『国家テロ』といえる性格をあらわにしつつある。」(ピースデポ『イアブック核軍縮と平和』2005[pp.34-35])

 次に、「解題:ガルトゥング平和学の進化と深化」から。以下はその結論部分です。「『戦争』を取り上げよう。戦争は、集合的・組織的な『暴力』とされる。しかし、なぜ、戦争は暴力なのか? 暴力の定義によれば、戦争が回避可能となるとき、戦争は暴力となる。そして、戦争が回避可能であるためには、その不可欠な条件として、戦争それ自体を原理的・法則的に否定する社会認識の歴史的発展・蓄積がなければならないのである。しかし、それだけでは十分でない。社会認識の歴史的発展・蓄積の上に立って、戦争を回避・廃絶しようとする人間の主体的な意思が必要となるのだ。また逆に、そのような人間の意思そのものが、歴史的に規定・生成されるのである。こうしたコンテクストにおいて、戦争回避・廃絶の人間の主体的努力を積極的平和と名付けることは、当を得ているに相違ない。」(『ガルトゥング平和学の基礎』2019[pp.174-188])

すなわち、現代において戦争は回避・廃絶可能であると私は考えています。にもかかわらず、戦争が起こる。次の引用は戦争発生の主要な必要条件の1つを的確に指摘しています。「世より棄てられ同胞もなく家もなきその人、彼こそ、国人の間に血腥き戦を見て悦ぶ者なれ」[Homer,Ilias Ⅸ.63 u.64](「山本宣治『戦争の生物学』の現代的意義」『トランセンド研究』第17巻第1号[2021.3, pp.12-19])

ガルトゥングは「NATOの東方拡大――第2次冷戦の始まり」(『ガルトゥングの平和理論―グローバル化と平和創造』第1部第3章[原書ドイツ語版の出版は1998年])において、現在の状況を予見していました。すなわち、「NATOの東方拡大に対応して、AMPOの西方拡大が…生じている。これはユーラシア大陸、特にロシアと中国を標的にして調整された挟撃運動と言える」とし、「ロシアの戸口までNATOが迫るのに、…ロシアは弱腰で降伏すると考えられるだろうか」と述べています。より印象的なのは、「NATO東方拡大の決定は非常に拙劣で、これに比べればヴェルサイユ条約すら輝かしく見えるほどだ。……今やソ連は存在せず、共産主義は当面消滅した。それでは[西側は―引用者]なぜロシアを、(没落した)ドイツ帝国よりひどく扱い、せめてナチス=ドイツ並みの扱いをしてはいけないのであろうか」との叙述です。私はここにロシア/NATO 紛争のなんともいえない悲劇性を感じます。

このところ、井筒俊彦著『ロシア的人間』を読み返しています。プーシキンからチェホフまで19世紀ロシア文学の精神史的叙述であり、ロシア的人間の典型として「完全無欠な『無用人』」が深く掘り下げられています。上述のような悲劇性を私が感じるのはこんなところに起因するのかもしれません。

 多少(かなり?)飛躍しますが、以上から私が言いたいのは、ユーラシア大陸の東端に生きるわれわれの喫緊の課題は東アジアの平和だということです。この問題をみなさんとともに考えていければと心より願っています。

2022.4.2